眠れぬ夜には、何かあたたかいものを ver1.5


「じゃあもういいよ!……君に聞いた俺が間違ってた」
「なんだよその言い方!」
「君が先に馬鹿にしたような言い方したんじゃない!」
「ちょっとしたジョークだろう!聞き流せばよかったんだ。突っかかったのはお前が――」

 ついこの前も喧嘩になって、ようやく仲直りできそうだと思っていたのに、ささいな事でまた言い争いになった。彼が少しだけ無神経で、俺が少しだけ不寛容だったからおこっただけの、ほんのささいな諍い。
(こんな気分のままでいたいわけじゃないのに……)
 明日は一年で一日だけの、誰にでもある特別な日だ。その朝を迎えるまであと数時間のこんな夜くらいは、ちょっとだけ浮かれた気分のまま眠りに就きたかった。友人――きっと俺のために素敵なプランを立ててくれている――のことを、やさしくない気持ちと一緒くたにしたまま眠りに就くのなんて嫌だった。憧れめいたものを抱いている彼に対しては、特に。
(こんなんじゃ眠れないよ……)
(はぁ……。食堂に降りて、何か飲んでこようかな)
 あたたかいミルクティーでも飲んで、気分を切り替えよう。布団を抜け出し、カーディガンに袖を通しながら、俺は気分を上向かせる方法を考える。ラム酒をちょっとだけ垂らしてみるのもいいかもしれない。それくらいなら、きっと先生も許してくれるだろう。

 食堂には先客がいた。思い悩むような途方にくれたような様子で、眉間に軽くしわを寄せながらコーヒーがドリップするのを眺めている。途端に自分の部屋に帰りたくなったけど、ひとつ息をついてから思いとどまった。会いたくない相手ではあったけど、会いたい相手でもあったからだ。
 彼との距離を測るように、一歩一歩距離を詰める。そうすることで物理的な距離以外のものも詰めていけると、すこしの勇気と期待を込めながら。

「白峰……」
「なんか寝付けなくってさ。あったかいもの飲みにきた」
「……俺は、煮詰まったから、息抜き」
 俺たちの間にとげとげしい空気はもうなかった。その代わりに、腫れ物に触るような、扱いに困るような空気がある。
 こういう時、俺はいつも思いあぐねてしまう。喧嘩をすることも、仲直りをすることも、何回も繰り返してきたのに、いつまでたってもスマートな解決方法がわからないままだ。
「――辻村は、コーヒー?」
 せんない堂々巡りに見切りをつけて、辻村に話しかける。心のなかで思っているだけでは伝わらない。俺たちの間には、言葉とか、行動とか、聞こえたり見えたりするものがきっかけとして必要なんだ。
「ああ。……お前は?もう寝るんだろう?」
「うん、だから俺は、コーヒーじゃなくてミルクティー」
 辻村の方をきちんと見られないまま、俺は準備をすすめる。食器棚からポットとマグを。冷蔵庫からは牛乳を。
「……コーヒーにミルクいれる?」
「いや、ブラックで飲む」
 ……とはいったものの、続く会話はやっぱりどこかぎこちなかった。このままキッチンにいるよりも、お湯が沸くまでソファで待ってた方がいいのだろうか。そう思って暗がりに目をやると、傍らからぶっきらぼうな言葉が届いた。
「湯、さっき沸かしたばかりだから、直ぐに沸くぜ」
「ああ、うん。ここで待つよ」
 彼の言うことを汲み取って、そのままここにいることにした。二人で、青く燃える火を見ながらお湯が沸くのを待つ。そうして並んで待っていると、コンロから伝わって来る熱が、俺たちの間の空気も温めてくれるような気がした。

 ピーッとやかんが鳴って、お湯が湧いたことを告げる。その音に背中を押されるようにして、俺は前を向いたまま、けれどしっかりと傍らへ向けて、口を開いた。
「昼間のことは――」「今日のことは――」
 同時におんなじことを言ってしまったものだから、同時に笑ってしまった。彼も、こんな状態で、こんな気分でいたくなかったんだ。そんな当たり前のことに今さら気がついて、あたたかくやさしい気持ちになる。
「ごめん、俺がちょっと気にしすぎだった」
「俺は気にしなさすぎた。すまなかった」
 謝罪と苦笑を交わし合って、穏やかな気持で笑い合う。面と向かって謝り合うのは少し照れくさかったけど、友人と仲直りできたことの嬉しさと引き換えなら、そういう気持ちになるのも悪くない。
「……お湯、冷めるぞ」
「あ、うん。……辻村は?もう一杯飲む?」
「ああ、終わったらやかんをこっちに貸してくれ」
「了解」
 暖めたポットに手早くお湯を注ぎ、もういいよと辻村に声をかける。けれど、彼はやかんにではなく、戸棚の奥に並んだビンの方へと手を伸ばしていた。
「蜂蜜入れるか?」
 キッチンの灯の下、金色にやわらかく光る色のビンを手に取って、楽しそうに彼は言う。
「ううん、入れない。もう夜中だしね」
 代わりにこれを、と言って俺は鈍く輝く茶色いビンを取り出して見せる。悪いことを企む子供のように彼は笑った。きっと俺も、おんなじ顔をしてるに違いなかった。

「そういえば、明日はお前の誕生日だったな」
 何とはなしに目に入ったのだろうカレンダーを見ながら、辻村が言う。『そういえば』が強調されている気がして、なんだかおかしかった。普通に話題にすればいいのに。でも、そうできないのもきっと彼らしさなんだろう。
「そうだよ。辻村は何か用意してくれてるの?」
 ミルクティーを一口飲んでから、余裕めかした笑みで期待を隠し、俺は尋ねる。
「まあ、な」
 そっけない口調に優しさが滲んでいるのがわかって、俺は嬉しい気分に浸った。明日はどんな日になるだろう。さっきまでは浮かんでも来なかった楽しい想像が次から次へと浮かんでくる。
「ふふ、楽しみにしてるよ」
「……でも、まあ、なんだ。言い過ぎた侘びも兼ねて、準備してるものとは別に、何かお前の希望を聞いてやるよ」
「そんなこと、別に――」
 しなくていいよ、と言いかけてから取りやめる。辻村からのせっかくの申し出だし、断って空気を壊すのも嫌だ。俺は明日が誕生日なのを理由にして、彼に甘えてみることにした。
「じゃあね。キャラメルマキアート、作って」
 俺はとっておきのように口にする。この意味を、彼はわかってくれるだろうか。
「……わかった」
「へえ、今度は女みたいな、とかって言わないんだ」
 そもそも、これが今回の諍いの原因だった。俺がキャラメルマキアートは自宅でも作れるのかどうか聞いてみたら、辻村はそんな風に答えたんだ。お前そんな女みたいなもの飲みたいのか、って。
「あれは!……悪かったと思ってる」
「いいよ。俺も言い過ぎた――ってこれじゃさっきの繰り返しだ」
「ははは、そうだな」
 繰り返しだと言ったけど、俺たちの気持ちはさっきやりあった時とはまったくの別物だった。こうやって、以前は好ましくなかった話題も楽しいものに変えていければいい。笑いあえることを積み重ねていこう。他の人より、少しだけ時間がかかってしまうのかもしれないけれど。

 真夜中の食堂は静かだ。だけど、朝になればそこは賑やかな食卓に変わる。明日はさらに騒々しくなるんだろう。想像に身を委ねれば、今度は気持よく眠れそうだった。
「俺、もう寝るよ」
「俺も、そろそろ部屋に戻るとするか」
 洗い物をしようと二人してキッチンへ戻る。
「あ!牛乳出しっぱなし……」
 さっき使ったまましまい忘れてたんだ。慌てて冷蔵庫のドアを開けて牛乳をしまおうとして、ドアポケットの見慣れない容器に目を止める。
「あれ?これキャラメルソースだ。こんなのあったっけ?」
「あ!馬鹿!お前、それは――」
 茶色い容器を見つけて手に取ってみると、辻村が慌てた様子で振り返った。
 こんなもの、昨日は見かけなかった。もしかして――
「もしかして、作ってくれるつもりだった?」
「チッ………」
「ふふ、なんだ。さっき頼まなくても作ってくれたんだ」
「……そうだよ」
「さっきのコーヒー、ホントは練習するつもりだったんじゃない?」
「うるせえな!」
 からかいを含んで聞いてみたら、照れかくしのような罵声が返ってきた。
 もしかしたら、明日の朝にはもう仲直りができていたのかもしれない。でもやっぱり、『今夜』仲直りができてよかったと心から思った。だって、楽しい時間は長いほうがいいじゃない?
「……もういい。俺が洗っておくから、お前はさっさと寝ろ」
「ははは!じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「洗い物の最中に寝こけて、カップを割られでもしたら困るしな」
 いつもの彼の憎まれ口から、ありもしない悪感情を拾い上げるようなことはなかった。いつもの皮肉げな笑みじゃなく、そっぽを向いて顔を赤くしているのだから、さもありなんという感じなんだけど。
「はいはい。ありがとうね。おやすみ」
「おやすみ。明日くらいはちゃんと起きろよ。」
「……キャラメルマキアート、淹れてくれるから?」
「――っ!とっとと寝ろ!」

 あたたかな怒鳴り声に背中を押されるようにして部屋に戻る。部屋を出た時の沈んだ気分は跡形もなくどこかへ消えていた。代わりに胸に満ちるのは、おだやかでやさしい気持ちと、すこしの高揚感。それは、さっき飲んだミルクティーみたいな、何かあたたかいものだ。
「うわ!寒っ!」
 すっかり深まった秋の温度に布団はすっかり冷え切っていて、潜り込んだとたん震えたけれど、からだの中のあたたかさまでは冷やすことはない。そう思ったら、なんだか楽しくなって毛布の中でひっそりと笑いをこぼした。
(今度は、よく、眠れそ、う――)
 そうして、俺はちょっと浮かれた気分のまま、するりと眠りの淵へと落ちていったんだ。


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