なんてことない朝。特別じゃない朝。
「っ、はっ……はあっ………はあっ……はぁー……」
何かに追い立てられるようにして飛び起きる。呼吸が覚束ない。冷たい汗が滝のよう流れ落ち、体がガタガタと震える。
クソ、情けねえ。きつく握った拳を開く。そこには爪の跡が刻まれていた。
ハヤブサの爪痕。なんて、こいつはそんな強者の証じゃない。あの時必死で何かを掴もうともがいていた、ヨージが溺れる者だった頃の、未だ生々しく残る傷痕だ。
俺に夜明けが訪れるようになってから、同時に悪夢も俺のものになった。
じいさんとの『約束』どおりに病院に通い始め、タカシや鷲介と本格的に統合するための治療にはいった。治療が進み、奈落の底に沈んでいた俺たちの過去がだんだんと鮮明になってくるにつれて、それは夜毎俺を苛み続ける。
正直悪夢の中身なんてほとんど覚えちゃいない。目が覚めると同時に頭ン中から消えていく。そのことはありがたいっちゃーありがたいんだが、どうせなら全部綺麗サッパリ忘れさせてくれっつーハナシ。
悪夢の残滓がヘドロのように溜まっている。体が重い。指の先までみちるダルさに引き摺られるようにして、俺はもう一度目を閉じた。
「……さーん」
声が降ってくる。
「隼人さーん?大丈夫ですかー?」
未だぐちゃぐちゃと晴れない頭ン中に、ただひとつはっきりと。
目を開けて見なくてもわかる。俺のボケた思考のピントを、一瞬で合わせられるのはひとりしかいない。
「朝ですよー?」
ゆっくりと手に力を入れてみる……よし、動く。
声を頼りに手を伸ばし、やつの華奢な体を思い切り抱き締めた。
「うわぁあっ!」
突然のことでバランスを崩したのか、やつは体ごと倒れこんできた。さらさらと頬を掠める髪からは、どこかほっとするような匂いがする。
「やーん。もー、今日の彼ってば朝からだいたーん」
のん気な声が横から聞こえてきて、強張っていた体からふっと力が抜けていく。小娘の戯れ言は、相変わらずどんな薬よりも回復効果があるらしい。
「どうしたんですかー?そんなにぎゅっと抱き締めなくても、鳴さんどこかへ消えたりなんてしませんよー」
二度寝してもまだ消えなかった悪夢が、楽しげな柔らかい声に洗い流されていく。
「何でもねーよ」
ベシッ。
「あたっ!」
やつにデコピンをくれてやると、幾分心配そうだった表情が緩み、「うにゃーん」などと奇声を発して抱きついてきた。
「へへー。
『ここにいたのか鳴!お前がいなくなったかと思うと気が気じゃなかった。もう絶対に離したりしない――!』
『私もです!たとえこの先に何が待ち受けていようとも、絶対にあなたの側から離れません!』
くふふ」
「アテレコすんなっつの。ぶっ殺すぞコノヤロウ」
ぺちっ。デコにもう一発。今度は指の腹で。
「とへへ」
相変わらずシマんない笑顔。
「口閉じろ口。よだれ垂れんぞ」
手の震えも、いつの間にか止まっていた。
背中を滑るような感触に気づく。どうやらずっとやつの手が宥めるように背中をさすっていたみたいだ。
俺は後ろ頭をがしがし掻いた。クソだせえ。けど同時に、なんだかあったけえな、なんて思う俺もいたんだ。
これから先、俺は何度自身の闇に捕らわれるかわからない。でもこいつが側に居てくれる限り、躓いたり倒れ込んだりしながらも、一緒に前へ進んで行けるんじゃないかって、そう思ったりする。そう素直に思えるようになったんだ。俺も結構変わったな。
でも、こういう変化は嫌いじゃない。
「あー、まあ、その、なんだ。ありがとな」
「えー?いったい何のことですかしら?」
鳴は何のことやらといった表情で笑っている。相変わらず些細なことにまで気を回すやつだ。
「あれ?お前ちょっと太った?ちょー見せてみ?」
「は?」
呆けたように口を開けているやつの隙をついて服をまくろうとしたら、反射的に結構な力で手を抑えられた。
「あ、あなた朝から何考えてるんですか?もー。今日はパルさんたちとお花見に行く約束があるんですよー」
「まあ、まあいいじゃん。ちょっとだけだって。んな減るもんじゃねーし」
「減ります減ります!それはもう、あたかもリストラされたサラリーマン家庭の預金残高のごとく減りますよー。
ええもうがんがんと。いいんですかー?隼人さんのお望みのたゆんたゆんにはなれなくなってしまいますよー」
「あれ、つかお前ダイエッターじゃなかった?んならむしろ減った方がいんじゃね?そーだよ、ほれ、減らすの手伝ってやるって」
「うわー、ほんと最低ー」
「まあまあまあまあ」
「ケダモノーー!」
馬鹿ップルみたいに朝っぱらから小娘とじゃれあっているうちに、陰鬱な気分はすっかりどこかにいっちまったようだ。
カーテンの隙間からまぶしい光が差し込んでくる。俺にとってはずっと特別だった朝。でももう特別じゃない朝。隣には相変わらず締まらないニヤケ面。まあ、きっと俺も似たような面してるんだろう。
世界が平和でありますように。
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